【イスラムとヒンドゥーが交わる勝利の都】ファテープル・シークリー
ファテープル・シークリーはこんな場所
インドの覇権を握ったムガール帝国の「勝利の都」
ファテープル・シークリーは、16世紀にムガル帝国の第3代皇帝アクバルが、古都アグラから40km西に築いた都です。
アグラ城を建てた皇帝アクバルは、アグラを拠点に勢力を伸ばし、ほぼインド全土を手中に収めました。
インド史上最大の帝国の礎を築き、歴代のムガル帝国皇帝の中でも最も人気の皇帝で、絶大な力を持りましたが、唯一の悩みは世継ぎに恵まれなかったことです。
そこで、この地(シークリー村)に住むイスラム教の聖者を訪ねて相談したところ「王子の誕生」を予言されました。
そして予言の通りに王子(第4代皇帝ジャハーンギル)が誕生したため、その記念としてここに新たな都をつくり、ファテープル・シークリー(勝利の都)と名づけたのです。
皇帝の思想を表す、独特の都
ファテープル・シークリーの建造には5年の歳月を費やしたといわれ、丘の上に築かれた城壁の中には、赤砂岩の宮殿や巨大なモスクが作られました。
モスクサイトにはその聖者シェイク・サリーム・チシュティの霊廟があり、今では子宝に恵まれる巡礼地として、インドでは有名な場所となっています。
宮廷サイトでは、アクバルが絶対的な権力を持っていたことがよくわかる建物がたくさんあります。
例えば謁見の間には、人々が真上を見上げなければならないような所に、皇帝が座る玉座があります。
しかしアクバルは力だけによる支配はせず、インドの伝統との徹底的な融和策をとりました。
ムガル帝国はイスラムの国ですが、領土の拡大とともに多くの異教徒を抱えていました。
当然、この地はヒンドゥー教徒が多く暮らす土地です。
そのためアクバルは、それまで異教徒に課していた税金などを廃止し、国を安定させ、同時に他教にも非常に強い興味を持ちそれら諸宗教を尊重していました。
また、ヒンドゥー教の豪族たちを要職に就かせ、彼らの娘を次々と後宮に迎えました。
その妃の数は、なんと5,000人ともいわれています。
ファテープル・シークリーは、そんなアクバルの思想を極めて良く表現している建築物といえます。
ヒンドゥーとイスラムの宗教融和策が生んだ、新たな建築様式
宮廷内の建築物には、イスラム特有のアーチやドームが一切ありません。ヒンドゥーの建築様式も積極的に取り入れられており、石造でありながらまるで木造建築のような梁や装飾を見ることができます。
これはインド古来の建築様式であった木造建築の様式を取り入れたものであり、アクバル式と呼ばれる独自の新しい建築様式です。
アクバルは、この都で、イスラムとヒンドゥーの文化が共存する「新しい文化」を誕生させたのです。
このヒンドゥー・イスラム様式は、後のムガル朝やインドの他の建築物に大きな影響を与えました。
このように、イスラムに加えてヒンドゥーやインド古来の様式をミックスさせたファテープル・シークリーの建造物は、他のムガル帝国の建造物と比べて非常にユニークな形を持つものが多いことが分かります。
ファテープル・シークリーの保存状態がよい理由
あまりの暑さで、14年で放棄
アクバルはこれだけ特異かつ広大な都を作りながらも、 遷移後わずか14年でここを放棄し、現在のパキスタン、ラホールへ都を移してしまいました。
その理由は諸説ありますが、水不足と暑さが大きな理由だろうといわれています。
たった14年で歴史の幕を閉じたファテープル・シークリーは、 戦乱にさらされることも、破壊されることもなく、今もなお良い状態で残されています。
当時の「勝利の都」は、現在は「夢の都」として、皇帝アクバルとムガル帝国の栄華を後世に伝えています。
5年もかけてつくった都を14年で放棄したほどなので、今でも暑さには注意が必要です。
暑い時期には日傘や飲用水を用意して、ぜひ探検してみてください。。